こんにちは!父が異常者でした。 キラリ(@k_to_hikaru) です。
実家にいた頃は父がアルコール依存症の上にゴミを拾ってくる、謎の宗教に傾倒、浮気と問題が大きすぎたため、母はまともだと思っていました。
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毒親の父は借金だらけ、酒のにおいと暴言が頭から離れない
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実家を離れ母も普通に毒親だと気が付いたので、今回は親子問題に悩む人に向けて、私の体験談を書きます。
毒親とは話が通じない、毒母育ちの私の幼少期
小さい頃から母親が嫌いでした。理由はいつも怒っているし、叩いてくるから。
母は 私が何かするたびに腫れるほど頬を叩きました。料理中に声をかけた、物を落とした、物をなくした、いろんな理由で叩かれました。
叩かれて泣くと、泣いたという理由でさらに叩く。私の認識では「お母さん」という名前で呼んでいる若い怖い人でしかありませんでした。
毒親とは話が通じない、毒母育ちの私の小学生時代
今でも覚えているのは小学校二年生の時、参観日のことでした、授業中に分かる人が手をあげる質問をされた時、誰も手をあげていない中、私は恐る恐る手を挙げて答えました。
授業が終わった後、母に空き教室に連れられて行き
「あの手のあげ方、恥ずかしかった。お父さんみたいになるね」と言われまた顔を叩かれました。その頃は泣くとまた叩かれることを理解していたので泣きませんでした。
成長するにつれて母に関わっても良いことがないことを学んでいくので、母に学校の話、友達の話などは一切しませんでした。
小学校6年生のときの家庭訪問で、母が先生に対して「いつも家で楽しそうに学校の話をしています」と言った時は、さすがいつも嘘をついているだけはあるなと内心思っていました。
毒親とは話が通じない、毒母育ちの私の中学生時代
中学校に入ったときから、母に美容室を指定されるようになりました。
いつも母と美容室に入り、母が注文をして切ってもらっていました。担当は常に若いお兄さんで、いつもこの人だなぁと思っていました。
高校生になり、一人で美容室に行ったときに初めて知るのですが母がいつもこの美容師さんを指定していたらしいです。
こんな風に、母は父とうまくいかなかったからか、男の人が好きで、私が知るだけでも歴代の不倫相手が2人いました。
理解に苦しむのは、不倫相手を私たち子供と無理矢理仲良くさせようとすること。中学時代に母が関係があった人の家には何度も連れていかれ、一泊させられたこともあります。
相手の方は無職で何をしているかもわからない人。暴力をふるわれたりすることはなかったので悪い人ではなかったのかも知れません。
それでも私たち兄弟からすると、得体の知れない人が、やたらと距離を詰めてきているという感じがして気持ち悪かったので、家に遊びにいくのを嫌がっていました。
毒親とは話が通じない、毒母育ちの私の高校生時代
私たち兄弟は時々子供だけで話し合いをしていました。話題はいつも父親を我が家から消す方法・母親の異常行動。
兄弟から聞いた母の話で気持ち悪かったのは服の話。母の運転で家に帰っていたとき、河川敷の道で車を急に止めて、道へ降りて行きました。
戻ってきた母の手の中にあったのはビニールにパンパンに詰まった服の山。「拾ったの〜!着れる〜!」と喜んでいたそうです。
「気味が悪いから捨てろ!」と姉が言うと、もったいないでしょ!と母は烈火のごとく怒り叫んだそうです。それでも姉が反対し続けると、 あっそー!どうせ私が悪いんでしょ!とキレて、服を車の窓から放り投げました。
こんな風によくわからないことをしてはキレる。子どもが大きくなってからは簡単に叩くことができなくなったため、当たり散らすことが多くなったと思います。
毒親とは話が通じない、毒母育ちの私の大学生時代
母はダイレクトメールで届く詐欺商品が大好きな人でした。
大学入学とともに家を離れた私が、久々に帰省したときに自慢されたのが、チャクラが貯まるというペンダント。
相変わらず騙されているなぁと思いながら、私は「そうなんだ!すごいね!マレーシアで100円で買った私も同じもの持ってるよ!」と答えると機嫌を悪くしていました。
風水にも大ハマりしていたらしく、リビングやトイレには風水雑誌から切り取ったページが貼られてありました。
お金に余裕ができてから買った方が良いよと何度も言いましたが、その後も黄色のテカテカした財布を持っていたので、おそらくこっそり買ったのでしょう。
それでも、大学生時代が一番母とうまく行っていました。それは私が地元で有名な大学に入れたから。母は親戚中に自慢して回っていたようでした。
この頃から第2の不倫関係の人と仲良くするように強要してくるようになり、帰省の度に不倫相手の職場に車で連れて行かされ挨拶をするようになりました。
毒親とは話が通じない、毒母育ちの私の就職活動
就職活動でいくつか内定をもらった状態で帰ってきた時、母は一番有名な企業に入りなさいと口酸っぱく言いました。理由はとにかく悪いことは言わないから、だそうです。
実家を離れてからは、母は賢くないからまともに理由を話せなくても仕方ないと思っていたので、とりあえず話は聞き流しました。
この頃は母は悪い父に引っかかってしまった被害者だけど、学費を工面してくれた恩がある分は返さなければと思っていました。
事実、離婚をしてパートだけの収入で学費を工面してくれたことには非常に感謝しています。(祖父母がかなりの額を払ってくれていたのもありますが)だから困っている時は助けようと思い、帰省のたびに少しずつお金を渡していました。
そうすることで今までのことは水に流して仲良くできるかもしれないと思っていたのですが、結局会話の通じない相手には何をしても上手くいかないのだな確信していきます。
毒親とは話が通じない、毒母育ちの私の就職後
私が就職した年、私の弟は第1志望の国立大学に落ち、私立への入学が決まりました。そして同年母方のいとこが医学部入学が決まりました。
それから母は明らかにおかしくなりました。いとこに直接ぶつけることはないものの、帰省のたびに叔母に対する悪口を延々と聞かされました。
あのクソババアとは顔も合わせたくない
と言っていました。私へのあたりもきつくなり、いとことは目も合わせず、新年の集まりの時も一言も交わさなくなりました。
叔母との狭い関係の中で、「うちの子どもが一番」というマウントを取り合い、それだけをプライドとして持っていたのだと思います。
このころ離婚をして不倫相手だった人との付きあいがさらに大きくなっていきました。母が付き合うのは自由にしてもらって良いのですが、予告もなくおじさんが新年の集まりやゴールデンウィークの集まりに来るのが地味にストレスでした。
母からはビールを注げと強要され、継ぎ方にダメ出しをされるという行きたくない飲み会代表のような時間でした。
帰省の時に一番気を付けなければいけなかったのは、母が私の予定を聞いてくることです。うかつに何もないと答えると勝手にそのおじさんと2人で出かける予定を組まされます。
何度も母と喧嘩をしてドタキャンを繰り返し、数年たってようやく辞めてくれるようになりました。
毒親とは話が通じない、毒母育ちの私の結婚
母と話すと精神を消耗して良いことがないと思っていたので、結婚は手紙を送って伝えました。
するとまた烈火の如く怒りながら電話がかかってきました。「結納金はどうするの!?」と言われ心から呆れました。
「私が払うから、いくら欲しいか言って」と言って電話を早めに切りました。やっぱり手紙でよかったなと思いました。結婚は電話で知らせてほしかったから怒っていたのでしょうか?
ちなみに母が父と離婚した時は手紙も何もなく、養育権を決める用紙のようなものにどこに記入すれば良いかだけ説明を書いた紙を送ってきました。
両家顔合わせの際は30分だけ話をして、私の兄弟と夫の両親とでゆっくり話をしました。母は結局私の夫の顔を見ることはありませんでした。
毒親とは話が通じない、毒母育ちの私の 母の再婚
そんな母ですが再婚したそうです。 再婚したそうですと書いているのは本人から聞いていないからです。
兄弟を通じて再婚するかもという風の噂を聞きました。しばらく帰省していないのでわかりませんが、もしかしたら家に帰ったらおじさんがいるかもしれないです。
毒親とは話が通じない、毒母育ちの私の 母に今思うこと
学校でも会社でも気が合わない人、一緒にいるのが苦痛な人というのは必ずいると思います。私の場合、それが実家で母だっただけだと思っています。
友人や会社で母の話をすると批判されてしまうので、母が経済的に苦しい中、学費を工面してくれた、本当に感謝できる点のみにスポットをあてて話すようにしています。
夫には無理に話さなくて良いと言っていますし、夫の実家も遠方のため変に関わっていないようなので一安心です。
- 血が繋がっていても分かり合えるとは限らないこと
- ストレスからは距離を置くこと
- 身内だから助けようと頑張って苦しくなるくらいなら何もしない方が良いこと
を学びました。
親だからこそ離れられない、情があること、私は心から理解できます。離れたと言っても私も未だに何あるたびに気をもんでしまいますが、それでも距離が離れたことで前よりは楽になれました。
もし毒親と同居で苦しんでいる人が読んでいれば、どんな喧嘩を起こしてでもムリヤリ離れることをお勧めしたいです。
ちなみに私の父はこの母がかわいく見える位の異常者だったので、私はあまり普通の人というものが良くわかりません(笑)
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毒親の父は借金だらけ、酒のにおいと暴言が頭から離れない
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